ゲームをしたいと思わなくなった幸せ

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ゲームが好きな人は多いと思います。最近では、本格的なオンラインゲーム、気軽にできるスマホゲームなど様々あります。インターネットを開くと広告が表示されますが、ゲームの広告もよく目にします。ゲームは何十年を経過しても衰えることなく人気を博しています。私は、ゲームをしません。正確に言うと、やめました。ただ、無理矢理にやめたのではありません。歳をとって、ゲームに手が伸びなくなりました。そして、ゲームをしないことは幸せだと思っています。今回は、ゲームに興味が無くなったことは幸せというお話させていただきます。

夢中になった小中時代

私は40代後半でして、子供の頃、自分の成長とともに、ゲームの発展を目の当たりにしてきました。

◎カセットビジョン(エポック社) 1980年代前半

超大きなドットで表示。金持ちの友人宅にしかなく、よく遊ばせてもらった。「与作」に夢中に。

◎ ゲームウォッチ(任天堂) 1980年代前半

スマホくらいの大きさの本体。ゲームを外に持ち歩けるようになったことに感激。ポパイ、オクトパス、ヘルメット。。大好きでした。

◎ ファミリーコンピューター(任天堂) 1980年代中盤

ゲームセンターのようなゲームが自宅でできるなんて!と感動したことを覚えています。初代マリオブラザーズ(スーパーマリオの前)やドンキーコングに感動。中学1年のときに、ドラゴンクエスト1が発売。当初まだ有名ではないときに、友達に勧められてプレイしたところ、そのクオリティーの高さに感動。シリーズの2や3は、販売日に学校を休んで買いに行く子供が問題になり、社会現象レベルにまで加熱しました。1~3までは、本当に心がワクワクしたことを今でも覚えています。

高校以降は熱が冷めていった

高校生になり、スーパーファミコンが発売されたのですが、大学受験のため、手を付けませんでした。中学生のころまでのように、喉から手が出るほど欲しいとは思わなかったです。大学生になり、スーパーファミコンを買い、社会人になって、プレイステーションも買うのですが、ゲームの最中は楽しいとは思うものの、昔のような感動を得ることはなかったです。

ゲームは時間の無駄

ゲームへの熱が次第に冷めていくことについて、淋しいなと思うこともあったのですが、幸いであると捉えています。現在のeスポーツのように賞金を得られるくらいまでになれば別かもしれませんが、その次元に到達できる人はほんの一握りの人のみ。お金を稼ぐことができなければ、ゲームによって自分に経験やスキルとして残るものは何もなく、時間の無駄です。この考えに至り、ゲームと決別することは、他の人から強制されてもなかなか考えを変えることは難しいです。自分自身で感じるしかないのです。私は、自然とそのようになったので、幸いだと思います。

ゲームに対する感覚の推移を振り返ると、人間は、年齢を重ねるごとに、執着する性質が薄れていく生き物であると実感します。ゲームはそれで良いのですが、仕事や恋愛や、友人、没頭できる趣味は、薄れたくないものです。手放しても良いものは、歳をとって薄れる性質を利用し、持ち続けるべきものは、興味を持つことの大切さを忘れないでいるようにありたいですね。

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